こんにちは。
90日で絶望を希望に、不安を安心に変える心理相談室『しあわせ体質』のカウンセラーおおにしみちおです。
愛の形というものについて考えてみたいと思います。わたしたちは、自分は愛されていないんだ、と思って悲しくなることがあります。孤独感を感じたり、絶望を感じたりすることもあるでしょう。
しかし、そこに本当に愛がなかったのでしょうか?愛がなかったのではなく、自分の望むような愛し方をされなかっただけかもしれません。
愛の形
愛の形というのはいろいろあるようです。子供には甘い顔を見せずに、いつも厳しく接するという親もいれば、放任主義で子供のやりたいようにさせるという親もいる。どれが正解というのはない。どちらも愛があったのだが、その愛し方が異なっていたということだろうと思います。
お父さんに、一緒に遊んでもらったことがない、顔を見たらガミガミ小言ばかり言われた、という人もいるでしょう。
お母さんに、学校の宿題ができるまでひとり夕食を食べさせてもらえなかった、という人もいるでしょう。
いくつもの塾通いをさせられて、友達と遊ぶ時間がなくて楽しいことがひとつもなかった、という人もいるでしょう。
一方で、行きたいと言えば塾に行かせて、行きたくないと言えばそれを尊重するお母さんもいるでしょう。
夕食は家族全員が揃って談笑しながら食べるという家族もあると思います。
いろんな愛の形があるのです。
愛されたいように愛されなかった
しかし、子供からみたときに、わたしは愛されなかった、と思うことがあります。それは、自分がして欲しいように愛されなかったから。
ガミガミと小言ばかり言わないで、たまにはキャッチボールを一緒にして欲しかった。
塾通いを強要して欲しくなかった。もっと友達を遊ぶ時間を与えて欲しかった。
夕食はみんなと一緒に食べたかった。
愛して欲しいように愛されなかったとき、少しもわたしを愛してはくれなかった、と思って寂しく感じてしまったりします。そこに愛はなかったのでしょうか?
ひょっとしたら愛だったのかもしれない
どうしてガミガミ小言ばかり言ったのでしょう?小言を言えば嫌われるに決まっています。嫌われてもそうした方が子供のためになると思ったのではないでしょうか。小言を言って、やっていいこと、やってはいけないことを教えていたのかもしれません。
たくさんの塾通いをさせたのも、宿題がすむまで夕食を食べさせなかったのも、誰よりも良い成績をとって欲しかったからかもしれません。どうして?将来、苦労してほしくなかったから。
愛がなければ、何もしなければいいのです。嫌われることも憎まれることもありませんから。でも、嫌われることを承知でするには、そこに何らかの意志があると思います。
子供の将来を考えてのことかもしれません。将来苦労しないように、いま、厳しくしておくのだということかもしれません。
親も未熟だったのかもしれない
やり方はとても未熟だったかもしれません。力ずくでさせようとしたとしたら、稚拙と言わねばならないでしょう。でも、それはお父さん、お母さん自身が、親として未熟だったから。
優しくしていたら言うことを聞いてもらえないと思ったかもしれません。だから、厳しく厳しく接しないと思ったかもしれないのです。
上手なやり方がわからなかったのです。なにしろ、親として子供を育てるという経験がほとんどなかったから。手探りの子育てだったのです。こういうやり方が一番いいと思ったのでしょう。
もし、愛があったとしたら・・・
「自分は愛されなかった」という思いがあったとしたら、「ここに愛があるとしたら」という前提で考えてみて欲しいと思います。
「自分は愛されなかった」という思いがあるとしたら、それは本当に未熟な親だったのかもしれません。愛し方は間違っていたかもしれないが、そこに愛がなかったのではなく、愛し方を知らなかっただけかもしれないのです。
「もし、愛があったとしたら・・・」という前提で考えてみると、また別の一面が見えて来るかもしれません。
『自分は愛されなかったと思うとき、それは自分のして欲しいような愛され方をしてもらえなかったということかもしれません。
そこに愛がなかったということではなく、愛の形が望むものではなかっただけ。だから、その愛を受け取れなかった。拒んでしまった。
あれも、これも、愛だったのかもしれない』
きょうも、お読みいただきありがとうございます。
みなさまのしあわせをお祈りしています。