90日で絶望を希望に、不安を安心に変える心理カウンセラー大西 迪夫(おおにし みちお)です。
プロフィールをお読みいただきありがとうございます。ひょっとしたらあなたの苦しみはかつてわたしが味わったのと同じ苦しみかもしれません。
日々悪化していく自分を感じて、もう治らないのではないか、一生このままなのではないかと絶望を感じておられるかもしれません。そして自分の将来に悲観しか出てこないかもしれません。
なぜなら、わたしがそうだったからです。一時は絶望感しかありませんでしたが、そこから抜け出すことができました。いまのあなたがどんな状況であったとしても、わたしがそうであったように、あなたも抜け出すことができるはずです。このプロフィールはひょっとしたらそんなあなたの参考になるかもしれません。ぜひ最後まで一読ください。
わたしは40年以上も前、大学4年生の春に、パニック障害、不安障害を患いました。症状の一番ひどい時は、家から一歩も外に出ることができませんでしたが、発症から2年を経て、社会復帰することができました。
カウンセリングを受けるには、カウンセラーとの相性がとて大切です。そのためには、あなたの苦しみが理解できるカウンセラーを選ばれる方がいいと思います。
さて、わたしはどのようなことで苦しみ、それをどのように解決してきたのでしょうか?
内気で気の弱い子供時代
子供の頃のわたしは、とても引っ込み思案の子供でした。
クラスのみんなの前で話すことがとても苦手で、すぐに顔が赤くなりました。それを見られるのが恥ずかいいものだから、余計目立たないようにしていました。
先生が誰かを当てようとしていると、もうドキドキしてきて気が気ではありません。そういうシーンが来ると、当たらないように、当たらないようにと祈っていました。
だから授業中は気が休まることがありませんでした。みんなが嫌がるテスト時などは、むしろ人前で話す必要がないのでホッとしたものです。
緊張症で初めてのことがとても怖かった
そのせいかどうか、わたしはとても緊張症でした。なんでもないことでもすごく緊張したのです。
例えば、小学校2年生の時、お弁当が始まりました。楽しいのはずのお弁当の時間が私には緊張する時間だったのです。
緊張で胸がいっぱいになり、一口も食べることができません。昼の授業が終わって、家に帰ってから、お腹が減ってお弁当をやっと食べられるようになりました。
次に小学校5年生の時、給食が始まりました。この時も、緊張症が出てきて、やはり食べられません。給食の時、ドボルザークのユーモレスクの曲が校内放送でかかるのですが、条件反射でその曲を聞くと緊張が高まってきました。
みんなが楽しみなはずの給食時間が私にはとても苦痛を感じる時間だったのです。
どうしてみんなと同じように、楽しい時間を持てないのだろう?
と自分を責めていたした。
不安、パニックの始まりは微かな異変だった
わたしは大学4年生の春に、パニック障害、不安障害を患いました。
最初の大きな試練がやってきたのは、大学4年生を迎えようとする3年終わりの春休みでした。
胸にかすかな違和感を感じました。その違和感が何なのかはっきりしませんでしたが、何とも言えない心細さのようなものを感じたのです。
その違和感を感じる頻度がだんだん多くなってきて、漠然とした不安感だと認識できるようになりました。
それはやがてはっきりとした不安感、恐怖感となり「恐ろしい」と感じるようになりました。やがて、食堂に入れなくなり、歯医者に行けなくなり、電車にも乗れなくなる。90分も拘束される大学の授業に出るにも支障が出だしだします。
最も授業の方は、周りに友人がいるの安心感を感じられて、まだこれは何とかなりました。一番怖かったのが電車です。特急に乗ろうものなら15分くらいは止まらないし、周りは知らない人ばかりなので地獄のようでした。
こういう空間に身を置くことになると、心臓がバクバクと早鐘を打つようになり、居ても立ってもいられなくなるのです。
症状は、日毎にひどくなるばかりでした。
なんでこんなことになったんだろう?
普通の人ならなんともないことに、どうして怖くて出来なんだろう?
自分を責める日々続きました。
40年以上も前のことなので、その当時、心療内科という病院はなく、どこ行ったらいいのかわかりませんでした。
それよりも、自分の体に起こっていることが病気だとも思えませんでした。こんなことは聞いたことがなかったのです。
誰に話したら理解してもらえるんだろう?
こんなこと誰かに話したらバカにされるしかないのではないか?
と思っていました。
坂を転げ落ちるように状況が悪化して絶望感を感じる
症状は良くなるどころか、悪くなる一方でした。大学4年で、就職という問題がありましたが、それどころではありません。
「自分の人生はどうなるんだろう?卒業するのに就職も決まらない。それどころか電車にも乗れない。情けないなあ。終わったな」
と、思っていました。
自分が情けなくて不甲斐なくて、苛立ちのあまり、拳を壁に打ち付けたり頭をぶつけたりしました。この何もできない現状に我慢できなかったのです。ただ、焦りと焦燥の日々でした。
当時、アパートを借りて独り住まいでしたが、部屋の壁が迫ってきて押しつぶされそうな感じがして、怖くなるようになりました。その時は、夜でも、外に出て近くを散歩しました。
日中は「怖い、怖い」で恐怖心ばかり。朝起きると、また長い一日が始まる、と思ったものです。夜は眠ることができたので、やっと苦しさから解放されると、寝る前が一番ホッとできた時間でした。
一人暮らしもままならなくなり、実家に帰りました。親に、すがったのです。
一筋の光が・・・
実家に帰りましたが、症状は一向に回復の兆しはありませんでした。そんな中で大学を卒業しましたが、仕事も決まらず、自由に出歩くこともできず、焦りと絶望感だけが心の中で大きくなっていきました。
できることは何もなく、眠っていれば恐怖心からは解放されるので、昼間でも寝ていることが多かったと思います。
自分の情けなさに、何度自分の頭を叩いたことでしょう。それほど、自分が不甲斐ない、と思ったのです。
そんなおり、一筋の光がさしました。本屋さんに行った時に、自分の症状が何なのかわからないかなと家庭医学のコーナーを見にいきました。
すると「神経衰弱の根治法」という古めかしい書物が目に留まりました。森田療法の本です。ページを繰っていると、なんとそこには私の症状と全く同じ症状の症例が載っていました。同じ苦しみを持つ同志がいたのです。わたしを迷わずその本を買って帰って、貪るように読みました。
この同じ症状の人がいるということがわたしにはとても励みになりました。
その本に書かれていたことは、不安をなくそうとしない、不安を感じるままに行動しなさい、ということでした。
そこから、それを実践する日々が始まりました。
父からの応援の手
父は、わたしの病気を理解できなかったとは思いますが、自営業をしていましたので、車で出張のおりは、わたしを連れ出すようにしてくれました。
わたしはというと、外出するのが怖いと言っているのに、と思い、父の誘いに腹がたちましたが、逆らいもせず、一緒に出かけることにしました。最初の時は、もう怖くて怖くて、体が震えるのがわかりました。でも、震えるままに、出かけたのです。
回を重ねるにつれて、少しづつですが、症状が改善していったように思います。
この父の手助けは、いま考えると、とてもありがたかったのです。もっとも、当時は「何言うてんねん。外出が怖いと言ってるやろ。わからんのか」と怒鳴りたい気持ちではあったのです。
できることから始めた
それから、自分でもできることはないかと考えました。体力がすごく弱っていたので、家の近所を走ってみようと思い立ちました。
これをやったから電車に乗れるというわけではないのですが、治すためにいまできることは何かと考えたら、できることはこれだったのです。
直接的には意味のないことかもしれませんが、治す、という目的のための第一歩としての行動をしたことで、パニック障害、不安障害を治すんだ、と潜在意識に入っていったと思うのです。
行動はなんでも良かったんですね。治すために何かをやる、ということに意味があったと思います。
不安があってもいい、怖くてもいい
森田療法に出会うまで、不安に思ってはいけない。怖さを感じてはいけない。不安や怖さを感じない自分ならなければと思っていました。
それはできることではなかったのです。できないことやろうとして余計に泥沼に陥っていたのです。
不安を感じる自分がいてもいい。恐怖におののく自分がいてもいい。ありのままです。不安なら不安のまま、怖いのなら怖いままに、歩いてみる。これが大切だと思います。
不安とパニックよ、さようなら
最初はとても怖かったです。勇気がいりました。電車に乗るんだと決めて駅に行く道中はなんとも言えない気持ちになりまた。ホームに立ったら、もうドキドキが止まりません。電車が来ても、乗ろうか乗るまいかためらいました。
えーい、なんとかなると清水の舞台から飛び降りるつもりで乗りました。ドアが閉まった時のなんとも言えない嫌な気持ち。言葉では表現できません。
ところが、そうやって不安があるままに行動するということをやっていると、目み見えて良くなったいったのです。
不安があるから、不安をなくしてからやろうとしていた時は全然良くならなかったのに、不安があってもいいから不安のままに電車に乗ろうとしたら、本当にビックルするくらい加速度的に良くなったいったのです。
そして、ついに、気にならなくなっのです。不安、パニックを手放せた瞬間でした。
新たなる試練/子供の不登校
わたしの試練はこれで終わりませんでした。不安・パニックを克服してから何年も後のことです。
結婚して子供ができ、その子供が中一の時、不登校になったのです。夏休みが終わり、新学期初日。体の具合が悪いというのです。ところが2日たち、3日経っても学校に行く様子がありません。学校に行ったらしんどいというのです。
いじめかと心配しましたが、いじめではないと言うのです。でも、学校に行くの苦痛になるというのです。
この時、私は3日ほど食事が喉を通らなくて、どうしたらいいんだろうと悩みました。育て方が悪かったのではないかと自分を責めました。
子供の不登校はそれから、中学校、高校と続きます。高校は普通の高校に行っていましたが、すぐに中退、通信制の高校に変わりました。
大学にも進学しましたが、行ったり行かなかったりが続きました。結局、大学も卒業することはなく。捨業目前まで来ていたのに中退してしまいました。
この期間、常に子供のことが心配で、不安がいつも心の底に横たわっていました。楽しい家族旅行をしても、心の底から喜べなかったのです。
こんなことで不安に思ってはいけない。不安に思う自分が情けない、と思っていました。
やがて不安障害へ落ちていく
そういう状況の中、わたし自身の悩みもありました。定年後の経済的問題。年老いた母親の介護の問題。
いろんな不安が私を襲いました。その度に、こんなことで不安になってはいけないと責める毎日です。
とうとう、不安が高じてなんでもない時にも不安感が頭から離れなくなったのです。心療内科に行くと不安障害と診断されました。幸いにも、処方された薬飲んでいると不安に苦しむこともなく普通に生活はできました。
しかし、調子がいいと思って薬をのむのをやめると不安が襲ってきて頭を締めつけられるような苦しさを感じました。
やがて断薬の時の苦しさにも襲われなくなります。それでも心の底から気持ちが晴れ渡ったわけではなかったのです。
心理療法で劇的変化が起こる
そんな時、わたし自身の将来の展望として、自分の苦しんできた経験を活かしたい、とカウンセラーになるため学び始めました。
その最初に受けたセラピーで、自分でも驚くほどの変化が心の底に起きたのです。それまで、心の中にあった不安、恐怖といった暗闇が綺麗になくなり、喜び、有難いという感謝の気持ちでいっぱいになりました。
心の中に、大きな太陽が顔を出し、暗闇を照らしたので、もう不安や恐怖という闇の部分は消え去るしかなったという感じなのです。
不安をどうしよう色々やるよりも、不安はそのままでいいので、光の部分に焦点を当て続けることが一番いいことだと思いました。
そのために、自分がしてきたあの時のダメな自分、情けない自分、許せないない自分をどれだけ愛せるようになるか、ここがすべてかもしれません。
当たり前のことが「しあわせ」と感じられるカウンセリングを提供
当たり前のことが、当たり前にできる。
わたしは、これが一番幸せなことではないだろうかと思っています。なのに、その当たり前のことができなくて苦しんでいる人がとても多い。
わたしもパニック障害のとき、どうしてみんなが普通にできることを自分はできないのだろうか?
と自分を責めてばかりいました。
しかし、いまならわかります。パニック障害で苦しんでいた頃の自分は、決してダメな自分なんかじゃなく、人生で一番頑張っていた日々だった、とわかります。
わたしは、いまパニック障害や不安障害、うつなどで苦しんでいる人々、不安に苦しみ、落ち込みで苦しんでいる人々に、当たり前ってありがたいなあ、当たり前にできるって幸せなことだなあ、と感じていただけるようなカウンセリングを提供しています。
カウンセリングを受けることにためらいがあるかもしれません。でも、ほんの少しの勇気を出せば、あなたは変わるための一歩を踏み出せるのです。
どうぞ、安心して何でもご相談ください。
わたしはあなたに寄り添い、あなたの悩みを癒すために全力でサポートいたします。